僕が日本への留学や就学を手伝ったタイの若者の数は30人近くになる。多くが就学だった。就学とは、働きながら日本語学校に通うことを指す。
日本での学費や生活費を、親が丸抱えできる家庭は少なかった。若者たちは、タイ料理店での皿洗いに汗を流しながら日本語を勉強した。10代後半から20代前半という年齢で親元を離れる。不安を抱えて成田空港に降り立つ。しかし3カ月もすると、日本の暮らしに慣れ、日本語も上達する。若い脳細胞は羨ましいほどだった。
その頃から別の心配ごとが出てくる。
あるタイ人女子学生がひとりのミャンマー人の若者を連れて我が家にやってきた。恋人だという。アルバイト先で知り合ったらしい。僕は彼女の両親に連絡すべきかどうか悩んだ。親元を離れる不安は、なんでも自由にできる解放感を内包していた。親に伝えるべきか、どうか……。
それから半年。彼女がひとりで我が家にやってきた。ミャンマー人の彼につきまとわれているという。彼女は別れたいようだった。
事態は暗転した。彼はストーカー行為を繰り返すようになり、引っ越し先にも押しかけてきた。身の危険を彼女は察していた。帰国――。彼と離れるにはそれしかなかった。バンコクにいる彼女の姉が奔走し、ひとつの作戦が練られた。姉の知人にタイ国際航空の客室乗務員がいた。彼女らが協力してタイに帰ることになった。
タイ国際航空の客室乗務員が泊まるホテルを予約した。しかしホテルから電話がかかってきた。彼女からだった。ミャンマー人の彼がロビーにいるというのだ。僕はホテルと連絡をとり、終電に乗ってホテルに向かった。
翌朝の朝4時。8人の女性客室乗務員が制服姿で彼女の部屋に集まった。彼女をとり囲むようにロビーに出、専用のバスで空港に向かう算段だった。その後ろを僕とホテルのスタッフがついていく。緊張の日本脱出だった。ロビーには彼がいた。気づいたようだった。足早に進む客室乗務員の靴音だけが響く。集団に戸惑ったのか彼は立ちすくんでいた。マイクロバスに乗り込んだ。
糸が切れたのだろうか。彼女はバスのなかで泣きはじめた。僕らはわかっていた。ミャンマー人の彼は不法滞在だった。簡単に空港にはやってこないだろう。
5年ほど前、彼女の結婚式がバンコクのホテルであった。相手は日本人だった。
旅行作家・下川裕治の往復便 ー タイ発日本行き 機上にて
しもかわ・ゆうじ 1954年(昭和29年)、長野県松本市生まれ。タイ、アジア、沖縄と旅を続ける旅行作家。ダコはじめ各国都市で制作するガイドブック『歩くシリーズ』の監修を務める。