旅行作家・下川裕治が見るタイの「今」

旅行作家・下川裕治が見るタイの「今」【バンコク急行】 第4回 アオ・ティー・サバーイチャイ

僕のなかでは、思い出したようにひとつのタイ語がブームになる。しかしその言葉を、タイで頻繁に遣うわけではない。むしろ日本にいるときによく遣う。日本ではタイ語が通じないから、遣うというより心のなかに浮かんでくるといったほうがいい。意識のなかで呟くタイ語ブーム……。

「ユー・チューイチューイ」がそうだった。ある食堂のタイ人店主はこんなふうに遣う。

「店の前に出すテーブルの件で、警察に賄賂を渡したんだ。もうユー・チューイチューイさ」

このときのユー・チューイチューイは、「もうなにも考えなくてもいい」といった意味になる。しかし、「なにも考えない」という深度が日本人とは違う。日本人なら、どこかで気に留める部分があるのだが、タイ人のそれは、本当になにも考えない。意識のなかから消えてしまう。

だからマイブームになった。日本で仕事をしていると、嫌なことは山ほどある。それに直面したとき、ユー・チューイチューイと呟く。それはタイ人への憧れでもあった。

最近のマイブーム・タイ語は、「アオ・ティー・サバーイチャイ」である。たとえばタイ人は、こういうシチュエーションで遣う。

友達が髪を金色に染めてきた。「金髪にしたんだ」というと、間髪を入れず、「これ緑色よ」。金髪といわれたことが不愉快なのか語気が強い。(どう見ても金髪だけど)とはとても反論できない。そんなとき、アオ・ティー・サバーイチャイ。(あなたがそんなにいうなら緑色ね)という意味になる。

一歩引いてサバーイチャイ。会社に勤めるタイ人は、頑固な上司の言葉にアオ・ティー・サバーイチャイを呪文のように唱える。

日本にいるときの僕も同じだ。編集者の冷酷な言葉に、アオ・ティー・サバーイチャイで乗り切ろうとする。

マイブームになるタイ語は、それにピタリと合う日本語がみつからないからでもある。

しかし、ユー・チューイチューイのマイブームとアオ・ティー・サバーイチャイの間には、大きく変わったタイの20年がある。いまのタイ人は、アオ・ティー・サバーイチャイという言葉にユー・チューイチューイを重ねようとするのだが、もうそれはできないことがわかっている。心の奥にトラブルは留まってしまう。昔のように忘れることはできない。

いい時代は終わった?

タイ人も僕も、毎日のようにアオ・ティー・サバーイチャイを唱えている。


しもかわ・ゆうじ
旅行作家。1954年生まれ。アジアや沖縄を中心に著書多数。最新刊は「ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅」(KADAKAWA)。月2回、バンコクで文章の書き方講座を続けている。現在、クラウドファンディングサイト「A‐port」にて、バングラディシュの小学校校舎修繕のプロジェクトも立ち上げている。

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