「いらっちゃいませ」の奥
日本人だから、タイで目にし、耳にする日本語には敏感になる。昔からタイでは、間違った日本語をよく目にした。「店休日」「ちゃしラーメン」「ドリアソ」……。タイの旅を始めた頃、安宿に近い食堂で、ビールを飲みながら開かれる「間違い日本語看板大会」は盛りあがった。
いまにして思えば、日本語の読み書きができるタイ人や、タイ文字に精通した日本人がまだ少なかった。平和な時代だったのだ。
「キク」を初めて耳にしたのは10数年前のことのように思う。はじめは、なにを意味するのかまったくわからなかった。「キクアノネ」も耳に届く。
タイ人に訊くと、「かわいい」といった意味だという。少し少女っぽいスカート姿に、女の子たちが、「キクー」と高い声をあげる。
その語源もわからない。「かわいい」とのつながりがどこにも見つからない。おそらく日本人が口にする言葉を、意味もわからずに口にし、若い女性たちが日本風のファッションを形容する言葉として使ったのだろう。
しかし、いまにして思えば、秀逸な日本語だった。意味も違えば、発祥も定かではないのに、音だけが日本風の言葉がタイ人社会に広まっていった。
しかし、最近、目にする日本語は少し違う。バンコク郊外のショッピングモールの1階に「KISSATEN CAFE」というカフェを見つけたとき、その奥に、相当に日本語の堪能なタイ人か日本人の顔がチラついた。カフェを日本では喫茶店と呼ぶことを利用しただけではないものが見え隠れする。しかし、タイらしさは失ってはいなかった。
ところが、スクムヴィット通りで、「いらっちゃいませ」と入り口に書かれたスーパーを目にしたとき、つい口ごもってしまった。この看板はどういう経緯で作られたのだろうか。
その奥に、タイ人らしくない顔が映ってしまった。「間違った日本語か」と足を止めると、その向こうに集客のための巧みな発想がほの見える。日本語を間違えたタイ人というステレオタイプの反応を逆手に取って印象付けていく……。なかなか見事だが、ひとひねりする経路に、なぜか軽く笑うことができなかった。
「日本語を間違えっちゃった、ハッハッハ」。そんなタイ人のおおらかさが見えてこないのだ。
タイの中の日本はそこまで来てしまったのか。これは進化なのか、矮小化なのか……。
旅行作家・下川裕治が見るタイの「今」 ー バンコク急行
しもかわ・ゆうじ 旅行作家。1954年生まれ。アジアや沖縄を中心に著書多数。最新刊は「ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅」(KADAKAWA)。月2回、バンコクで文章の書き方講座を続けている。現在、クラウドファンディングサイト「A‐port」にて、バングラディシュの小学校校舎修繕のプロジェクトも立ち上げている。