男と女の学際研究 ~現役学者が微笑みの国を考察!~
5人の現役研究者が「日本男とタイ女」をテーマに、いろいろな角度から考察する連載コラムです。
今回の著者:文化人類学 片山 隆裕
『ヤマダ―アユタヤーの侍』(2010年)というタイ映画があります。大関正義が主演の山田長政を演じており、武士道精神と優しい内面をもつという日本男が描かれています。
山田仁左衛門長政が、1612年頃シャム(タイ)に渡り、アユタヤーのソンタム王の信認を受けて日本人傭兵隊長となって活躍したとされています。
ソンタム王の死後、長政は王位継承をめぐる抗争に巻き込まれ、内乱状態にあったリゴールの平定に赴き、リゴール国王に任ぜられますが、毒殺され40歳の生涯を閉じることになります。
国家主義と共に育った山田像
日本では江戸時代から現代に至るまで長政について数多くの書物が書かれていますが、明治時代中頃に「長政がアユタヤ国王の王女と結婚し、シャムの国政を代行した」という言説が生まれました。
これは「明治中期に国家主義的教育体制が固められ、この時期の小学校教科書(歴史、国語、修身)の中の山田長政像も国家主義的思想の影響を受けて変化したもの」(土屋 2003)と推測されます。
また、太平洋戦争開戦前に雑誌『日本国民』に掲載された中村吉蔵の戯曲「山田長政」(1932年)では、長政はソンタム王の王女と結婚したという筋立てになっており、1940年に読売新聞に連載された角田喜久雄の小説『山田長政』でも、長政とソンタム王の妹ルタナ姫とのロマンスが描かれています。
翌年に流行歌手・東海林太郎が出した「山田長政の唄」というレコードでも、山田長政とルタナ姫との恋のエピソードが出てきます。
「当時のアユタヤ王室の姫が日本から来た素性のわからない人物に恋をするというのは現実的とは言えない」(土屋 2003)とすれば、長政の人物像が明治中期以降の「アジア主義」「南進論」や1930年代から終戦までの時期の「大東亜共栄圏思想」鼓舞の必要性などを背景として変化する中で、長政のタイ女との関わりも描かれていくことになったのかもしれません。