旅行作家・下川裕治が見るタイの「今」

旅行作家・下川裕治が見るタイの「今」 ロケ地が醸成する、作品の空気【バンコク急行】第25回

香港での宿は昔から重慶大厦である。チョンキンマンションと読む。もう40年近く世話になっている。いまも……といいたいところだが、コロナ禍で香港に行くことが難しい。渡航制限が解ければ、やはり重慶大厦に泊まると思う。

重慶大厦の全盛期には、おそらく200軒を超えるゲストハウスがこのビルのなかにひしめいていた。九龍半島側の尖沙咀という一等地である。スムーズな香港旅は、このゲストハウスビルに支えられていた。

宿泊客の国籍はさまざまだった。欧米や日本、韓国……。途中からネパールやアフリカからの客も増えた。アフリカ組の多くは、年単位で借りていた。

治安はあまりよくなかった。不法滞在、ドラッグ……。僕も夜中に警察に起こされたことが何回かある。通報を受けた警察は、安宿の部屋を虱潰しチェックをしていた。

だからだろう。このビルを舞台にした映画が撮られた。『恋する惑星』である。中国語題は重慶森林、英題はChungking Express。日本でもヒットした。

有名な映画のロケ地をめぐるツアーというものがある。コロナ自粛で、かなりの映画を観た。久々に『ローマの休日』を観ると、やはりローマに行きたくなる。台湾の九份を訪ねると、『千と千尋の神隠し』を思い出す。

しかしそれは、観光客として訪ねる立場の話だ。ロケ地に泊まっている身になると、立場は逆転し、ときに見世物に近づいていってしまう。

『恋する惑星』がヒットしていた頃がそうだった。重慶大厦に泊まっていた僕は、近くの茶賓廰で安い麵でも啜ろうと、サンダル履きでエレベーターで1階に降りる。正面出口から彌敦道に向うと、視線を感じるのだ。

歩道には日本からやってきた若い女性は立っていて、こちらになめるような視線を送ってくる。子連れの女性もいて、僕を見ようする子供の体の向きを無理やり変える。「目を合わしちゃいけません」といいたげに。

いったい僕はなんなのだ、と思いたくもなる。ドラッグの密売人? ポケットには銃が入っている?

映画のロケ地は訪ねるところであって、そこに泊まってはいけない。

しかし『恋する惑星』はいい映画だった。上海に生まれ、香港に移った監督のウォン・カーウァイは、香港生まれのトニー・レオン、北京に生まれて当時は香港にいたフェイ・ウォン、台湾生まれの金城武らを重慶大厦に配置し、香港を描いた。あの頃の香港でなくてはできなかった映画だと思う。

少しボリュームをあげ、映画のなかで流れたフェイ・ウォンの「夢中人」を聴く。香港の鎮魂歌にも思え、鼻の奥が熱くなる。

 

下川祐治
(しもかわ・ゆうじ)

アジアや沖縄を中心に著書多数。新刊は『世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア大陸横断2万キロ』(朝日文庫)、『台湾の秘湯迷走旅』(双葉文庫)。
   『下川裕治のアジアチャンネル』

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