香港での宿は昔から重慶大厦である。チョンキンマンションと読む。もう40年近く世話になっている。いまも……といいたいところだが、コロナ禍で香港に行くことが難しい。渡航制限が解ければ、やはり重慶大厦に泊まると思う。
重慶大厦の全盛期には、おそらく200軒を超えるゲストハウスがこのビルのなかにひしめいていた。九龍半島側の尖沙咀という一等地である。スムーズな香港旅は、このゲストハウスビルに支えられていた。
宿泊客の国籍はさまざまだった。欧米や日本、韓国……。途中からネパールやアフリカからの客も増えた。アフリカ組の多くは、年単位で借りていた。
治安はあまりよくなかった。不法滞在、ドラッグ……。僕も夜中に警察に起こされたことが何回かある。通報を受けた警察は、安宿の部屋を虱潰しチェックをしていた。
だからだろう。このビルを舞台にした映画が撮られた。『恋する惑星』である。中国語題は重慶森林、英題はChungking Express。日本でもヒットした。
有名な映画のロケ地をめぐるツアーというものがある。コロナ自粛で、かなりの映画を観た。久々に『ローマの休日』を観ると、やはりローマに行きたくなる。台湾の九份を訪ねると、『千と千尋の神隠し』を思い出す。
しかしそれは、観光客として訪ねる立場の話だ。ロケ地に泊まっている身になると、立場は逆転し、ときに見世物に近づいていってしまう。
『恋する惑星』がヒットしていた頃がそうだった。重慶大厦に泊まっていた僕は、近くの茶賓廰で安い麵でも啜ろうと、サンダル履きでエレベーターで1階に降りる。正面出口から彌敦道に向うと、視線を感じるのだ。
歩道には日本からやってきた若い女性は立っていて、こちらになめるような視線を送ってくる。子連れの女性もいて、僕を見ようする子供の体の向きを無理やり変える。「目を合わしちゃいけません」といいたげに。
いったい僕はなんなのだ、と思いたくもなる。ドラッグの密売人? ポケットには銃が入っている?
映画のロケ地は訪ねるところであって、そこに泊まってはいけない。
しかし『恋する惑星』はいい映画だった。上海に生まれ、香港に移った監督のウォン・カーウァイは、香港生まれのトニー・レオン、北京に生まれて当時は香港にいたフェイ・ウォン、台湾生まれの金城武らを重慶大厦に配置し、香港を描いた。あの頃の香港でなくてはできなかった映画だと思う。
少しボリュームをあげ、映画のなかで流れたフェイ・ウォンの「夢中人」を聴く。香港の鎮魂歌にも思え、鼻の奥が熱くなる。