昨年の9月、東京の渋谷でひとつの集会が開かれた。タイのプラユット政権に反対するタイ人の集会だった。当時、タイでも学生らを中心にした反政府、そして王室改革を叫ぶ集会が頻繁に開かれていた。それに呼応する形で東京でも集会が開かれた。
ハチ公前の会場に行ってみた。中央に100人ほどが集まり、垂れ幕を手に声を挙げる。リーダー格の男性のタイ語がハンドマイクから響く。皆、中年だった。女性も多い。
そこを遠巻きにするタイ人を見ると、黒いTシャツに白いリボンをつけた学生が多かった。留学生だろうか。女子学生のリボンには「Dior」のロゴが見えた。バンコクの集会では学生が中心だった。タイに倣えば、学生が前面に出るところなのだろうが、日本では輪の中心に入れず、眺めるだけだった。
中央にいるタイ人中年組と遠巻きする若者たちは、プラユット政権打倒という同じ旗印を挙げていた。しかし年齢は20歳以上離れていた。育った時代の豊かさが違った。
中年組の多くは、タイ人の不法滞在が多かった頃に日本にやってきた。出稼ぎである。東北タイであるイサーンからやってきた人が多かった。
10年ほど前、タイを追われたタクシン元首相が日本にやってきたことがあった。都内のタンマガーイ寺を彼は訪れ、日本全国から彼を支持するタイ人が集まった。そろいの赤Tシャツ。胸にはこんな文字が躍っていた。
「日本赤シャツ隊」
当時、タイは揺れていた。タクシンを支持する赤シャツ派と反対する黄シャツ派がぶつかっていた。タクシンの支持基盤はイサーンである。日本にいるタイ人はイサーン出身者が多かったから、当然、赤いTシャツになびいていく。日本はタクシン派の重要な海外拠点になっていた。
しかし、日本のタクシン派の時計はそこで止まった。いや、針の進み方が遅いということか。
そのあたりは、タイに暮らす日本人が肌感覚としてわかっているはずだ。これだけ通信システムが発達し、日本の情報は逐一伝わってくるというのに、いまの日本に遅れをとっている感覚がつきまとう。5年もバンコクにいると、浦島太郎になってしまうような不安がある。
しかしタイ人は勝手な人が多い。だから反プラユットの集会の前面に出て行ってしまう。しかしバンコクでは、赤シャツ派より黒いシャツに白いリボンの学生たちなのである。彼らは赤シャツ派と黄シャツ派が衝突していた頃、まだ10歳にもなっていなかった。
タイ人中年組はその溝を埋められず、昔のような演説を舌に載せてしまう。年月はちょっと残酷だ。