1996年といえば、一昔どころの騒ぎではない。岳父の訃が入ってきたのは、そんな冬の日の深夜である。例によって若い人たちと一緒に遅くまで飲みに行っていて、前後不覚に寝ているところをたたき起こされた。「お父さんが死んだ…」。翌日はちょっとした会議が入っており、いくつかの仕事も入っていた。寝たきりだった母のこと、その母に食べさせるお米のことなど、いくつもの気がかりはあったが、そんなことを言っているときではない。当時は日本米がなかったが、母にだけは、少しずつ店に並ぶのを買ってきて食べさせていたのである。深夜で酔いも醒めてはいなかったが、出社して塀を乗り越えて守衛さんを起こし、部屋を開けてもらった。
東京にいた甥たちと連絡をとると、お金がおろせないと言う。そんなことは心配するなと言って、羽田で落ち合うことにした。私たちは東京の姉のところに行って母のことを託し、車を預けてから姪に羽田まで送ってもらったのである。
JALのオフィスに飛び込んで、朝一番の便を予約しようとしたが雪祭りと重なっており、全く空席はなかった。しかし、そのような客のために予備席があるらしく、4人分の席は確保することができた。
豊平トンネル崩落事故が起きたのが2月10日、土曜日の朝8時ころのことである。突然の岳父の死と平行しての事故のことも忘れられない。